高卒で就職して早三年、
さすがに仕事にも慣れた。
就職したての頃はずっとドキドキしていた。
ミスもしたしコミュニケーション取るのが苦手だから人間関係の構築にも四苦八苦した。
案外その方が良かったかもしれない。
繰り返される日々の中で「慣れ」という物は色を奪ってしまう。
あれだけ大変だと思っていた社会人生活、確かに今でも大変だし二日酔いはキツい。
しかしどうしても昔程の新鮮さは無い。
友達も少ない、彼女もいない最近の俺の楽しみと言えば毎月の給料日とプロ野球くらいだ。
もうひとつ忘れていた。
毎日の通勤に使うバス、そこでいつも一緒になる高校生の女の子がいる。
なぜ高校生と分かるかと言うと当時俺が受験して不合格だった学校の制服を着ているからだ。
最初の頃は別に気に留めていなかった。
確かにかわいい娘だ。
だから何だと言う話だ。
目の前にかわいい女の子がいようと俺が声をかけられるわけなんて無いしそもそも声をかけたとこ
ろで?
かと言って顔をめちゃくちゃ見てたりしてそれがバレたとしたら「あのオッサンめちゃくちゃ見てくるじゃん気持ち悪い」と思われるだろう。
(もっとも俺はまだオッサンと呼ばれるような年齢では無いのだが女子高生からしたらよれたスーツを着た目付きの悪い男なんてオッサンだろう)
毎日同じバスに乗るというのにそんな風に思われたらたまらない。
バスの時間をズラす他無い。
「そんな事気にしなければいいだろ」と言われればそれまでかもしれないが俺は大いに気にするのである。
誰も自分の事なんて見てないと分かっている。
それでも他人の視線を過剰に気にしてしまう。
その娘に特に興味を持つ事は無かったのはそういうわけである。
そんな彼女に興味を持ち始めたのは半年ほど経ったある日だ。
確かだいぶ社会人生活に「慣れ」が出てきた頃だ。
何の気なしに彼女が携帯電話を持っているのを見た。
今時の高校生は皆スマホ持ってるのか、俺なんてまだ中学生の頃に買ってもらった携帯だぞ、なんて思っていたら一瞬、ほんの一瞬、しかしはっきりと見えた。
『YANO 48』とプリントされたストラップ
思わず声が出そうになった。
「YANO」と「48」、そこから浮かび上がるものは一つしか無い。
読売ジャイアンツの矢野謙次である(何を隠そう彼の背番号は48番なのである)
矢野謙次-
主に代打で神がかり的な活躍を見せる選手、
気迫や根性、闘志をムキ出しにしたプレースタイルからファンも多い
しかしあくまでそれは「プロ野球好き」の中での話だ。
ただでさえ野球離れの著しい時代、野球に興味の無い人間なら彼の存在すら知らずに一生を終えるであろう。
更にこの辺は本来黄色い虎の球団を応援すべき地域だ。
普通の女子高生が彼、矢野謙次の存在など知るわけ無いのだ。
そう、普通なら-
つまり彼女は普通で無いというわけである。
聞きたい、何を聞きたいかと言うとキリなど無い。
なぜそのストラップを携帯につけるに至ったのか?
どこで購入したのか?
なぜ矢野謙次なのか?
なぜ黄色い虎の球団の選手の物を買わなかったのか?
周りに話合う人はいるのか?
とにかくこの日以降その娘を見る度に「昨日の試合についてどう思っているのだろう?」とか考えるようになってしまった。
たまに目が合いそうになってはミニタオルで冷や汗を拭くのであった。
そんな感じの平日が続いていた。
俺は彼女に対して色々考えていながら関わる事は一切無かった。
彼女が何年生かは分からないから就職して1年経った四月、もういないんじゃないかな?と思ってバスに乗っていた。
しかし彼女は乗って来た。
という事は去年の時点で彼女は一年生か二年生だったのだろう。
その年の途中でどうやら彼女の携帯は新しい物に変わったみたいだった。
しかし『YANO 48』のストラップは変わらずくっついていた。
おお、と思った。
その年も何も無く終わり次の四月、今年はもう乗って来ないんじゃないかなあの娘?と思いながらバスに揺られていたが甘かった。
乗って来たのである。
つまり俺が社会人一年生だった時に彼女は高校一年生だったのである。
なるほどそれなら順調に行けば彼女は今年で卒業だ。
バスで見るのも今年が最後というわけだ。
恐らく大学受験をするのだろう。
それなら今年はゆっくり野球見る暇も無いだろうな。
なんて事を考えながらもそれを口にする事など無くただミニタオルで汗を拭く毎日だった。
12月下旬、彼女はバスには乗って来なかった。
何も驚く事では無い。
冬休みの時期である。
最初の年は気づくまで時間がかかったが(真剣に体調を崩したのかと少し心配したものだ)次の年からはすぐに冬休みだと分かった。
この冬休み、彼女は受験に向けて最後の追い込みだろう。
巨人は優勝したし、君も大丈夫だよ。なんて柄にも無い事を考えてふと思った。
もう彼女を見る事は無いのでは無いかと
俺の高校でもそうだったが、三学期は自由登校だ。
もちろん彼女は登校はするだろう。
しかしその頻度は恐ろしく低下するだろう。
だから何だと。
元々偶然同じ時間に同じバスに乗って駅に向かうだけの関係だ。
言葉も交わした事も無い、
ただこの地域に住んでいる女子高生の癖に矢野謙次のストラップをつけているだけの-
…………なぜ矢野謙次なのか
普通、坂本や長野に流れるのでは無いか?
俺は、昔から異性と話した事がほとんど無い。
最低限の連絡以外で自分から話しかけた事も無い。
しかしこれで良いのだろうか?
女子高生がなぜ矢野謙次のストラップを?
好きだからだろう。
なら何故好きなのか?
俺は、このままこの疑問を持ち続けたまま生きていくのか?
このままこの疑問を持ち続けたまま死ぬのだろうか?
このままこの疑問を墓場まで持って行くのだろうか?
それは駄目だ!!!!!
今までに無い変に熱い気持ちが湧き出るのを感じた。
彼女があと何回登校するのか分からない。
だから次、次しか無い。
次に彼女がこのバスに乗った時にこの疑問をぶつけるしかない。
不審がられるだろう。無視して逃げられるかもしれない。下手したら警察を呼ばれるかもしれない。
しかし俺はこの疑問を持ち続けたまた死ぬまで慣れた日々を繰り返す事もできそうに無い。
思えばずっと真っ直ぐな折れ線グラフみたいな人生だった。
それならたった一度くらい起伏を作っても良いだろう。
それが上向きか下向きかは分からないが。
一月下旬のある日、
彼女はバスに乗って来た。
行くしかない、今日しか無い。
バス停に着いた時が勝負だ。
俺の全てをかけて彼女に疑問を投げつけるんだ。
くだらない事かもしれない。しかし俺はそんな事に本気になっている。
全く、もう少しマシな生き方をしていたらこんな変なスイッチの入り方しなかったのだろうな。
バス停に着いた。
いつもはもう少し時間がかかったような気がするのだが、
こんなに近かったっけ?
何はともあれ行くぞ、バスを降りて、彼女に声を
…………声を、
かけなきゃいけないんだけど、
声が出ない
何回もシミュレーションしたじゃないか、
第一声は「ちょっとごめん」だって何回も、
…………もう一回くらい、彼女は登校するんじゃないか?
俺が高校三年生の三学期、自由登校だった時、就職が決まっていたというのもあるが結構登校していたし、
案外まだまだチャンスはあるんじゃないか?
だから無理して今日じゃなくても-
「今日はもういいや、明日からだな、うん」
そういやそう言い続けて結局高校落ちたんだっけ、
矢野謙次はいつも「今日打てなくても次打てたらいいや」なんて思いながら打席に入ってたっけ?
その心に火をつけて
熱く熱く体を燃やせ
ふと浮かんだフレーズは他でも無い矢野の応援歌の物だった。
体燃やしたら死んじゃうだろ…………
だが、魂なら燃やせる!!!!
「ちょっ・・・・すいません」
シミュレーションと全く違う、情けない声をなんとか絞り出した。
「…………私、ですか?」
少し驚いたように振り向いた彼女。
「あ、怪しい者じゃ無いんだ、ただ、なんで矢野謙次なのか、それだけ聞きたかったんだ」
ずっと溜め込んでいた言葉を一息で吐き出した。
ぜえぜえ言ってる俺とは対照的に
爽やかな笑顔で彼女は答えてくれた
「好きなんですよ。それだけです。お兄さんも巨人ファンなら分かるでしょ?熱くて見ていて気持ちいいですよね、矢野って」
アレ、なんで俺が巨人ファンって分かったの?とポカーンとしている俺に彼女は言った
「いつも汗ぬぐってますよね、オレンジのタオルで」
そうなんだよ、俺も巨人ファンなんだ。だから気になって、ありがとう。
やっとそれだけ口にして彼女とは別れた。
『好きなんですよ』
…………そうだよ、当たり前だよな。
「好きだからだよな」
そう呟いてふふっと笑ってみた。
俺が巨人が好きなのに明確な理由は無い。
ただ好きだから好きなんだ。
彼女も同じだ、巨人が好きで、矢野が好きなんだ。
今度は少し大きく笑ってみた。
ちっぽけな事かもしれないが、たまにはいつもと違う事があるとやっぱり楽しいなと思った。
ゆっくり歩いてたら電車に乗り損ねた。
そして話は現在に戻る。
就職して早三年。
社会人四年生になった俺は変わらずバスに乗って駅に向かう。
そして大学一年生になった彼女も変わらずバスに乗って来ていたのであった。
なんでも時間がほとんど変わらないのだとか。
いつの間にか彼女とはそこそこ言葉を交わす間柄になっていた。
と言っても俺から話しかける事は無い。
ただ彼女が「昨日はいい勝ち方でしたね」とか言ってくるので「そうだね」なんて言ったりするのである。
社会人生活や二日酔いにはすぐ慣れたが、どうやらこれはなかなか慣れそうに無い。
だから俺の数少ない楽しみは月一の給料日とプロ野球と彼女に対する返事だ。